薫習庵琴古流尺八アライアンス Kunjuan Kinko-Ryu Shakuhachi Alliance

 吉村蒿盟琴古流尺八教室(竹盟社京都支部) 大阪田波楽器教室 高槻教室 京都教室、兵庫尼崎・西宮教室などで行っております。

     初心者、経験者、他流を問いません、古典を中心に基礎から丁寧に個人指導します。
     お気軽にお越しください。出稽古にも参りますのでご相談ください。
     お申込み先 携帯電話 090-1899-3665 MAIL(onko9on@yahoo.co.jp)お待ちしてます。
     塾生専用ページ(塾生NET稽古帖
     WELCOME!I'm a professional Kinko-ryu Shakuhachi player from the Chikumeisha school
     I offer individual shakuhachi lessons in Osaka Tanami-gakki Takatsuki Kyoto-Hosonotei
     Hyogo Amagasaki Mukonoso and Nishinomiya Najio.

カテゴリ: 薫習庵だより

image
image
この連休は、家に篭って事務と稽古をしていたので、今日は近場ですが立杭焼の郷にある兵庫陶芸美術館で開催中の「今右衛門の色鍋島展」に行って来ました。
事前に何も学習しないで行ったのですが、衝撃的な作品達に圧倒されました。

改めて「芸術は無限」だなあと感じると共に「やはり心妙剣の先にしか無相剣はない。」とも、勘違いかも知れませんが私はそう思いました。

第14代今泉今右衛門の作品は本当に素晴らしくて感動しました。51歳で人間国宝になってるのが至極当然に思いました。これから先一体どれほど素晴らしい作品を残されるのかとても楽しみです。

まだ開催は平成29年11月26日までありますので、皆さまにもお薦めいたします。もし行かれるときはcoーopさんのカードがあれば200円引きになりますので持参下さい。

同じ館で地元の陶芸作家展もありましたので、そこで印象に残った「まるまつ窯」にランチの後帰り道に寄って、気に入った貫入青磁がありましたので思い切って購入しました。いい作品だと思いました。これを眺めることで力をもらって自分の稽古に励もうと思います。

image
心妙剣と無相剣の話は、司馬遼太郎の「龍馬が行く」でも紹介されたいたようですが、私は覚えていませんでした。

今回、ネットで偶然見つけましたが、印象に残る言葉です。
「無相剣」と「無想剣」の違いがよく理解できないのですが、普段から沢山の「サトリという名前の異獣」達と暮らしている私には到底縁のない言葉のようです。

低レベルな疑問で笑われるのは覚悟の上なのですが、無相剣と言うのは必ず心妙剣に達した人だけが更に到達出来る境地なのでしょうか?
それとも真の達人と言うのは、一気に無相剣の世界に到達出来るのでしょうか?

私には、後者はそれこそ全く縁のない言葉ですから、地道にサトリ達を一頭(匹)ずつ減らしていけるようひたすら無心で木を切っていくしかないと考えています。

続いての疑問なのですが、もうサトリのことは考えずに、その木こりは無心に斧で木を切り続けたということなのですが、無心になれる為には、やはり切れ味の鋭いその木こりにフィットした斧が必要ではないのかなと思いますが、如何なものなのでしょうか?

などと自問している私は、やはりサトリ達に囲まれながらもうまくやっていける道を探し続けるしかないのだろうと自答しています。

真の達人には関係ないのかも知れませんが、私は切れない斧で無心になって木を切り続けることは出来そうにないので、先ずは斧の名品を探してからよく研いで自分にフィットさせてから木を切りたいと思ってしまうのです。

image
薫習庵心妙という言葉について調べていたら、以下の言葉が見つかりました。
以下、いくつかのネットの寄せ集めです。


幕末の剣客・千葉周作が開祖の北辰一刀流の免許皆伝には二種類あるといわれている。
「二種類あるといわれている」というのは、免許皆伝は一つであるが、その内容が人物によって二種類あるということである。
 まずその一つは心妙剣の極意、これは相手に加える狙いが悉くはずれぬ、いわゆる剣の達人のことである。
この極意は努力で得られるから、免許皆伝の人物は多いであろう。
二つ目は無相剣の極意。 
これは言葉では表現できないことはもちろん、技術的にも教えることが出来ないので、例話で表現される。
 
 (無相剣の極意) 

深山で、ある樵きこりが斧おのをふるって大木を伐っていた時、いつのまに来たのか、サトリという異獣が背後でそれを見ている。
「何者ぞ」と聞くと、
「サトリという獣に候」という。
あまりの珍しさに、樵はふと生け捕ろうと思った時、サトリは赤い口をあけて笑い、
「そのほう、今わしを生け捕ろうと思ったであろう」と言い当てた。
樵は驚き、この獣容易に生け捕れぬ、斧でうち殺してやろうと心中たくらむと、すかさずサトリは、
「そのほうは、斧でわしをうち殺そうと思ったであろう」といった。
樵は、馬鹿々々しくなり、
「思うことをこうも言い当てられては詮もない。相手にならず木を伐っていよう」と斧をとりなおすと、
「そのほう、今、もはや致し方なし、木を伐っていようと思うたであろう」とあざ笑ったが、樵はもはや相手にならず、どんどん木を伐っていた。

そのうち、はずみで斧の頭が柄から抜け、斧は無心に飛んで異獣の頭に当たった。

頭は無残に砕け、異獣は二言と発せずに死んでしまった。

人間の知識・技術の深妙さばかりが重視される現代社会への、警告とも受け止められる。
知識をフルに使い、偽物を造ったり、偽装したりするものの、
一つ間違えば大きなリスクを負う人や企業や国は言うに及ばず、
心妙剣ともいうべき邪よこしまでない知識の集大成であっても、
気が付けば大きなリスクを負っているのが現在の我々である。
知識なくしては人類の進歩はなかった。
しかし進歩の果てには、人類滅亡という大きなリスクがあることを知るべきである。
年末にあたり、進歩こそ最良であると思っていた、自分への警告としたい。
そして、無相・無我の境地に心を馳せてみたい。





剣術でいう無想剣の極意はそこにある。
この寓話は、おそらく創作上手の禅僧がつくった話だろうが、神田お玉が池の千葉周作はこの話しが好きで、門弟に目録や皆伝を与えるときは、必ず、
「剣には心妙剣と無想剣がある」
といった。
周作はいう。
「心妙剣とはなにか」

別名を実妙剣といい、自分が相手に加えようとする狙いがことごとくはずれぬ
達人のことで、剣もここまでいけば巧者というべきである。
しかしこの剣も、サトリの異獣のようにそれ以上の使い手が来れば破れてしまう。
無想剣とは、
「斧の頭」
なのだ。斧の頭には心がない。ただひたすらに無念無想で動く。
異獣サトリは心妙剣というべきであり、無想剣は斧の頭なのだ。
剣の最高の境地であり、ここまで達すれば百戦百勝が可能である、と千葉周作はいうのである。






オレの尊敬する60歳を超えた先生と剣を交わす。
打ちはオレの方がはるかに多く、試合ならば勝っているだろう。
しかし、稽古を終えた後、打ちのめされている自分に気づく。
たった5分程度の稽古で様々な基本的なことを思い知らされる。
邪気のない大らかな剣は、相手を倒す剣ではなく相手を活かす剣。

オレもまだまだ甘いが、もう40を過ぎた。
次の試合では勝つことよりも、相手を活かす剣を試してみたい。
斬られることを恐れるよりも、自らの剣に心を任せて打ってみたい。
それで斬られるならば本望である。

このページのトップヘ